越後久美子さんの「できるところから始めて、形を変えていく」の話(4/5) – 小さな身体の偉大な先生
5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催していたトークイベント「働く女」。
昔は結婚して家事をし、子どもを育てることが女性の生きる道だとされていましたが、今では女性の生き方も多様化しています。
そんな女性のキャリアについて実際に諸先輩方にお話を聴きたい!と思い始めた会です。
ゲストはテレフォンショッキング形式で決まります。
1月に開催した、第7回目のゲストで自称「元祖きままかーさん」の越後久美子さんのおはなし全5回の4回目です。
今回は3人目のお子さんのお話です。
前回までの分も併せてご覧ください。
第1回 3人兄弟末っ子1人娘
第2回 憧れを胸に抱えて
第3回 育児・介護・夢
38歳で知った「まさか」
新聞などのメディアに取り上げられて、来mamaルームが有名になったんですけど、第3子がやってくるんですよ、38歳で。子どもは3人いたらいいなと思っていたので、やはり叶って、しかも思いがけずに女の子を。
妊娠中は全然わからなかったんですけど、生まれてきてしばらくしてからダウン症だろうということになりました。
妊娠中は「順調です、順調です」ってずーっと言われていました。3人目の妊娠で、わたしもいろいろ慣れちゃっているので、好きなものを食べてのほほんと待っていました。
実際生まれたら、すごくちっちゃくて、ふにゃふにゃで、お餅みたいな感じ。泣かないし、おっぱいを飲むのも下手でした。
だけど、上の子たちは男の子だったから、この子は女の子で小さく生まれたし、かよわいのかしらと思っていたくらいでした。
次男と同じ産院で産んだんだけど、知っている看護師さんとかに、産んだ時に「おめでとうございます」って言われなかったんです。よそよそしい態度だったなって後から思えばつながったんですけど。
産後5日間入院するんですけど、心臓に雑音があるから7日に伸ばしますと言われて、最後の日に小児科の先生から「心臓に雑音があるので、大きい病院に行ってください」と言われて、天使病院を紹介されました。
一度退院して、生まれて10日目くらいに天使病院に行ったときに、「実はここに来てもらったのはダウン症の疑いがあるからです」と言われました。
ガーンって、それまで色々とありましたけど、結構思い描いた通りの人生だったんですが、これが人生に三つの坂があるってことだったんだなって思いましたね。上り坂・下り坂・まさか。38歳にしてついに来たか!と思いました。
ダウン症と言われても、どういう症状なのかとか、わからないんです。だけど、よくわからないからこそ、ショックで涙が出る。
夫が横で染色体異常の検査の同意書にサインしているのを茫然と見ていました。
すごく落ち込むというよりは、試されてるなって、逆に奮起するような気持ちにもなりました。
検査結果が出るのは二週間後で、でもどう考えてもこの様子はおかしいと思って、帰ったらすぐネットで検索しました。ダウン症の症状が全部あてはまると思いました。
上の2人のときに、母乳で育てることにこだわっていたので、母乳育児支援の団体を知っていて、そこのリーダーにすぐ電話をしました。そこでダウン症児向けの母乳育児の冊子が出ていたんですよね。すぐ送ってもらいました。
母乳育児って、障害の有無は関係なく、適切な支援を受けられるかどうかで続けられるかどうか変わってくるんですよね。
産後1か月で東京へ
さらに、出産直後に東京の出版社から電話がかかってきたんです。
短歌とかエッセイとかを書くのがすきで、妊娠中に暇すぎて、東京にある致知出版社というところのマニアックな本を読んでいて、短歌募集の記事を見つけて応募していたんですね。
それが入賞したので、表彰式に来てくださいって言われたんですけど、ダウン症の赤ちゃんを産んだばっかりで行けるわけないと思ってそう言ったんです。だけど、「待てよ、行きたい!」と思いました。
産後一か月だったら帰省で飛行機乗る人とかもいるじゃないですか。
ダウン症の子って心臓に穴が開いていたり、手術が必要な場合もあるんですけど、病院の先生に聞いたところ、合併症もないし、手術の必要もないということで許可が出て、夫や自分の親からも承諾を得て、気分転換に行かせてもらいました。
ホテルオークラ、立派な、芸能人や外国のお客さんが泊まるようなところが会場だったんです。
この際だから泊まろうということで、予約をして、生後一ヶ月の娘を連れて、ふわふわのベッドに寝てきました。
嫌なことも裏を返せば
娘はネタですね。娘が生まれたときの心境とか、エッセイを書くと落ち着きました。
ブログはやめちゃったんですけど、Facebookとかで発信すると、ストレス解消になるというか。
自分ひとりで抱え込んでこの子を育ててもしようがないと思って、ダウン症だということをFacebookで先に公表しちゃったんです。見る人が見ればわかるじゃないですか。気を遣って欲しくなかったんですよね。
「ダウン症なの?」って聞くのも嫌だろうし、わたし一人というよりは色んな人に見守ってもらった方がわたしも気が楽だなと思って。
そしたら、それはそれで色んな障害のあるお子さんを持つお母さんに届いて、今度はそういうお母さんたちが来mamaルームに実際に来てくれるようになりました。
娘をきっかけに、新しく来てくれる方や出会う方が増えていきましたね。
娘の障害がわかって落ち込んだけど、娘をきっかけに色んなことを経験させてもらいました。
そして、またエッセイコンテストで、「小さな身体の偉大な先生」というタイトルのものが入賞し、表彰式が東京で行われました。
そのときは、夫は仕事だったんですけど、上の2人は大きくなっていたので、子ども3人連れて東京へ行いきました。娘は既に2回東京に行っていますね。
わたしが入賞式に出てる間、子ども達は部屋で待っていたんですよね。そしたら娘がうんちしちゃって、「お母さんに電話したけど全然通じなかった」とか言って。それが思い出になっているみたいで、「あのときのうんこはくさかった」って時々喋ってます。
嫌なことや辛いことも、裏を返せばいいきっかけだと思えますね。上の子たちはやんちゃですけど、基本妹には優しいですね。
<つづく>