越後久美子さんの「できるところから始めて、形を変えていく」の話(2/5) – 憧れを胸に抱えて

2019.03.19コラム

5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催していたトークイベント「働く女」
昔は結婚して家事をし、子どもを育てることが女性の生きる道だとされていましたが、今では女性の生き方も多様化しています。
そんな女性のキャリアについて実際に諸先輩方にお話を聴きたい!と思い始めた会です。
ゲストはテレフォンショッキング形式で決まります。
1月に開催した、第7回目のゲストで自称「元祖きままかーさん」の越後久美子さんのおはなし全5回の2回目です。

今回は中学生から20代まで駆け上がります!

前回までの分も併せてご覧ください。

第1回 3人兄弟末っ子1人娘

 

バビッとした憧れの女性英語教諭

中学校に入って英語の授業がはじまって、その英語の先生は、当時50歳過ぎのマダムみたいな感じの先生でした。バビッと化粧して、バビッとショートカットで、喋り方は美川憲一さんみたいな感じの、すごくかっこよかったんです。

夏休み・冬休みには海外旅行へ行っていて。最初は全然英語に興味がなかったんですけど、英語を勉強したら先生みたく海外とか行けて楽しいだろうし、こんな風なバビッとした格好いいおばちゃんになれるのかなと思うようになりました。

その先生がきっかけで英語を好きになったんです。

英検を受けたりして、旭川北高の英語科(当時)に進学したいと思うようになったけど、北高はまあまあ進学校なので、全然ランクが足りなかったんです。

 

居間のすぐ横がわたしの部屋だったんですけど、家が狭かったのもあって、テレビがうるさいんですよ。

受験のときに、テレビを自分で隠して、兄たちに「受験まで協力して」ってお願いしました。

夜遅くは兄たちがテレビを見ていなくてもワーワーワーワーうるさいし、9時くらいに寝て、3時くらいに起きるようにしたんです。そしたら静かで集中できるし、成績も上がって、無事合格できたんですよね。

 

英語科は2クラス80人位いたんですけど、自分はきっとぎりぎりで合格してるから、入ってからついていけなかったら困ると思って勉強をずっと続けていました。周りは受験が終わってから開放的になっていたんだけどね。

わたしは何番だろうって思っていたら、最初のテストで学年1番になったんですよ。

「うそー」と思いましたね。

 

末っ子には許された私学の大学

部活はバレーボールで嫌な思いをしたから、違うことをやってみようかなと思って放送部に入ったんですけど、独特な、オタクなメンバーが多くてついていけなかったこともあって、何か月かで辞めました。

その時も、やっぱりかっこよかった中学校のビシっとした先生が憧れで、大学では英語の道に進みたいなと思っていました。

兄2人は私学はだめだと言われていたけれど、進路を考えるときに、北星大学の英文科がよさそうだということになりました。

一番上の兄は高卒で公務員試験を受けて国家公務員になって、二番目は極端でパンクロッカーなんです。札幌ではちょっと名の知れたヘビメタ系のやんちゃなバンドをしていたんです。モヒカンで。

小学生の時に兄の通っていた高校の方面から来るバスに乗ったら、後ろがどよめいているんです。見たら兄がいて、その日は金曜日で週末だったので、親に内緒で学校帰りに髪をがーっと剃って、固めて、キンキンに立たせてるんですよ。「うわー!兄貴だ」ってわたしはすすすすって前に逃げて…。

そういう格好をして街に行くのを目撃したこともありましたね。坊主になって帰ってきて。親には内緒だったんです。

そんな兄も札幌の専門学校に進学していました。

そうやって兄2人は私学の大学はダメだって言われていたのに、最後のわたしは「いいよ」と言われ、兄たちからはたぶんずるいと思われてるんですよね。

 

大学も無事受かりました。

このときも朝型生活でしたね。今でも何かやろうと思った時って朝目が覚めるんですよね。

あと、受験のときもここに通うことになるんだなと思っていたし、結婚するときもこの人と結婚するんだなとか、勝手に思い込むというか、明確なイメージを持つんですよね。

そうすることで実現しているというか。

 

基本的に、嫌なことからは逃げてもいいと思っていて、我慢ばかりもどうかなと。頑張る時は頑張るけど、我慢しすぎもよくないと思います。自分のしたいようにやってきました。

 

担任・教科・部活・生徒指導…

大学在学中、1年間交換留学をしました。映画の世界みたいに、一面コーンフィールドで、360度地平線が見えるようなすごく田舎でした。閉鎖的でしたけど、電車に乗って一人旅もして、地域性とかもよくわかりました。

日本に帰ってきたら、もう同期の友だちは卒業していて、すぐ教育実習に行ったんです。教職はとっておきなさいと親に言われていたので、そのために5年間大学に通いました。

教育実習に行ったら、すごくやりがいのある仕事だなと思いました。親が教員だから、なんとなく避けていたんです。

全然勉強せずに教員採用試験を受けたら落ちてしまって、たまたま大学に来ている求人を見たら私立高校の求人があって、受けに行きました。

その時も、わたしはここに通うなって感じて、案の定合格させてもらいました。

 

そのときわたしは23歳なんですけど、そこから精神的には落ちていきます。激務だったんです。

20代全部は私立高校で過ごしました。

入ってすぐ担任を持たされて、英語科でした。1年生、2年生とそのまま持ち上がりで、研修旅行はアメリカでした。海外への引率で、もちろん先生はもう一人いましたけど、その先生が結構クセのある先生で、少し大変でした。

とにかく1~3年生までもって卒業させて、また今度1年生の普通科、振出しに戻って。

普通科の子たちは少しやんちゃなので、生徒指導もありました。夜、保護者さんに電話したり、夜、慌てて家庭訪問に行こうとして一時停止不停止で警察に捕まったり、色々ありましたね。

最後また1~3年生まで担任を持って、このままだったら結婚もできないし、結婚して子どもを授かったとしても、この生活をずっと続けていくのはすごく厳しいなと思っていたんです。

部活もバレーボールを任されていて、好きなんですけど、やっぱり土日の方が試合があったりして大変なんです。休みなしの自転車操業で、授業準備もしなきゃならない。常に体調不良ですよね。

 

そうこうしているうちに結局、職場結婚をすることになりました。それが29歳のときです。

最後の卒業生を出して、わたしも退職しました。

結婚式の直前にアメリカの研修旅行だったんです。向こうでは食生活すごいじゃないですか、結婚式直前にすっごい大きいニキビができました。生徒たちもミッキーとミニーの結婚祝いをくれたりして。

 

直後に子どもを授かりました。

 

<続く>