山西言枝さんの「ずっとなりたかった職業じゃなくても」のはなし(3/5)- 「暴れましたか?」

2018.12.23コラム

5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催している「働く女」。
昔は結婚して家事をし、子どもを育てることが女性の生きる道だとされていましたが、今では女性の生き方も多様化しています。
そんな女性のキャリアについて実際に諸先輩方にお話を聴きたい!と思い始めた会です。
ゲストはテレフォンショッキング形式で決まります。
第4回目のゲストで管理栄養士の山西言枝さんのおはなし全5回の3回目です。

第1回目 何やってもだめなんだな
第2回目 かなしいクリスマス

いわくつきの施設での就職が決まった言枝さん。
社会人生活はいかに?

ラピュタで働く

就職する頃、精神的には下降気味で、ピーク太るんです(笑)。成人式の写真とか見たくない!だけど20歳で働き始めてからは10キロやせたんです。女子寮に入って、食事や体調管理を自分でやらなきゃならなかったのと、肉体労働とで。日中はずっと作業着でタオルまいてるんだけど、夏は汗で前が見えないくらいでした。

 

仕事内容は、厨房で給食を作り、合間でパンを焼いたり、弁当を作りながら利用者さんの支援をしていました。支援員兼栄養士として障害者の施設で働いていたので、利用者さんが飛び出したと言ったら、魚焼きながら「ちょっと捕まえといて!」と追いかけていくとか。ゴミを回収する係のおじさんや利用者さんもいて、「あっち行ったからがんばりな」とか言って、毎日事件が起きるんですよね。朝一から階段で突き落とされそうになったり壮絶でした。

 

だけど、そういう環境でも楽しくなってきたこともあったんです。どんな職業でもそうだと思うけど、一番最初は仕事を覚えなきゃいけないし、人間関係を築かなきゃいけないですよね。70人くらいいる利用者さんと人間関係を築くのもすごく大変で。

 

利用者さんと独身の職員の寮、結婚してる職員たちの町営住宅があって、山の上でひとつの集落みたいになっていたので、ラピュタと言われていました。施設と寮とは目と鼻の先で、寮にいても利用者さんが飛び出していく音が聞こえるし、全然休まらない!と思ってましたね(笑)。

 

利用者さんは最初、「こいつ何者だ?」ってすごく警戒するんです。支援員だから色々指導はするんだけど、20歳そこらの小娘に言われたってやりたくないじゃないですか。それこそ、わたしは幼少期に褒められた記憶がないから、褒めて育てるって感覚がわからなくて、とにかく指摘をして強制的に導くということしかできませんでした。

 

だけど、信頼する先輩のやり方を見ていて、利用者さんを一人のひととして認めたらいい関係になれるのかなと勉強になりました。ただ、それを真似したところで全部うまくいくわけではないんですけどね。

 

25歳を過ぎたら夏前に脱水症状が出始めました。休みの日に点滴を打ってたんだけど、27歳のときにそれではおさまらなくなっちゃって、「脱水症状じゃないです。でもこれは大人がなる症状じゃないです。どうしたんですか?暴れましたか?」って言われて(笑)、ケトン体の数値が尋常じゃなかったんです。子どもが癇癪起こしたときになる数値だと言われて、逆にそのくらい動いてたっていうか、極限まで肉体を使っていたんでしょうね。

 

管理栄養士になれたけど

このまま続けていたら身体を壊すと思って、短大時代の担任の先生のところに相談に行って、求人情報をもらいました。新篠津の役場と長沼の老健の求人ならあるよと。長沼の老健に行ったら、栄養士だから調理に入らなければいけなくて、それまでと同じなんですよ。

 

だけど、新篠津の役場だったら産休の代替えで1年5か月の期限付きではあったけど、9-17時で終わるし、ずっと調理に携わるわけではない。行政の栄養士は待遇もいいし、辞めるひとが少ないということもあって、経験してみたらいいんじゃないかということで、知り合いも土地も知らない新篠津へ引っ越しました。

 

そうして新篠津で任期を終えて、札幌に帰ってきました。栄養士としてずっと働いていましたが、管理栄養士になることをあきらめていたわけではありませんでした。20歳から働き始めて、23歳から管理栄養士になるための受験資格があったんですけど、試験の日がいつも3月末なんです。

 

年度末って忙しくて、それは言い訳であるとしても、働きながらでは勉強も学生並みにできず、中々受からなんですよね。独学でやらなきゃいけないし、どんどん変わっていく法律にもついていけなくて、札幌に帰った年に保育園で働きながら毎週日曜日だけ予備校に通っていました。

 

保育園は日・祝と月2回の土曜日だけが休みだったから、土曜日仕事で日曜日予備校だと2週間休みなしでがんばったにも関わらず、その年は落ちて(笑)、妹の前で「わたしもう無理だよ!」って泣きましたね。

 

体力もないし、金銭的な面でもちょっと厳しいから、2年続けて予備校に通うのは難しかったんですけど、次の年にぎりぎりで合格しました。31で。だから、このときはすこし気持ちが上がりました。

 

受かったけど、すごく辛かったんですよね。そもそもずっと栄養士になりたかったわけでも、親が栄養士だったわけでもないし、入院したときの栄養士さんがすごかったからとかそういう憧れも全然なかったんです。

 

20代のときに管理栄養士の方と働いたことはあったけど、ぶっちゃけ栄養士でがんばっている先輩の方がすごいなと思えたり、尊敬できることが多くて、当時の環境もあったにせよ、管理栄養士の方で尊敬できる方はいなかったんですよね。

 

だからこそ、「管理栄養士になってこんな風に色んなことやってるひとになりたいな」と思われるひとになりたいと思ってがんばっていたんですけど、勉強があまり面白くなかったんです。

 

***

 

文字通り身を削って働いたのち、晴れて管理栄養士となった言枝さん。
だけど、尊敬するひとがいない!?
自分が尊敬されるひとになるんだ!と心を決めて、
それから言枝さんは…

 

次回に続きます。