中西まゆみさんの「豊かさにつながる手間と仕事」の話(1/5)- もじもじちゃん、アイドルになる
5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催しているトークイベント「働く女」。
昔は結婚して家事をし、子どもを育てることが女性の生きる道だとされていましたが、今では女性の生き方も多様化しています。
そんな女性のキャリアについて実際に諸先輩方にお話を聴きたい!と思い始めた会です。
ゲストはテレフォンショッキング形式で決まります。
11月に開催した、第6回目のゲストでテーブルコーディネーターの中西まゆみさんのおはなし全5回の初回です。
プロフィール
中西 まゆみ
食空間コーディネーター
テーブルコーディネート教室・おもてなしサロン Camarade.主宰。
OL時代に趣味で習い始めたテーブルコーディネート。見た目の美しさだけでなはく、美味しく食べるため、会話が弾むため、食卓を整えることの大切さを伝えたいと考え、約26年のOL生活にピリオドを打ち自宅サロンを開業。 食事をする時の心地よさを大切に、優しさと思いやり溢れる食卓の演出を提案しています。
OL時代に紅茶・ワイン・チーズなど、食に関連する資格を取得。またテーブルコーディネートのコンテストで全国優勝の他、受賞経験多数あり。
気持ちを伝えるテーブルコーディネート
OLとして26年程勤めて、会社を辞めて、起業をして、今はテーブルコーディネーター、食空間コーディネーターという肩書でやっています。
ただテーブルの上にお皿をポンポン乗せて見栄えだけを整えるのではなくて、お箸があればお箸置きの上に置くとか、テーブルにマットを敷いたり、テーブルクロスをかけるなど、そこにきちんと意味や季節を込めて一緒に食事をするお相手におもてなしの気持ちややさしさ、思いやり、感謝の気持ちを伝える表現の方法としてテーブルコーディネートをします。
お子さんがいれば、食卓の上で教えてあげられる教育ってたくさんあるので、それを伝えるということにもつながります。
小さいころはもじもじちゃん
生まれは札幌で、妹がいます。わたし、本当にお姉ちゃんタイプです。姉御肌なんです。本当はかっこいいお兄ちゃんが欲しかったですけど。
子ども時代、すごく積極的で明朗活発な子どもだったんですけど、実は小さいときからそうだったのではなかったんです。
小さいときは笑わないもじもじちゃんだったらしいんです。子どもって「飴買ってあげるから」とかいうと「うん!」っていうイメージですけど、わたしはものにつられず、あまり笑わない子で、ひとの中に入って行くのが得意なタイプではなかったみたいです。
公園で遊ぶにしても、母が一番前にわたしを置いて帰ってくるんだけど、戻ってくる頃には一番後ろに追いやられているようなおとなしい子だったんですって。何が原因かはわからないんですけど、少しずつ少しずつ明るく積極的になっていきました。
なので、希望絶望曲線(※開始前にこれまでの人生の中での希望と絶望の心の機微を曲線で表してもらっています。)も自我が芽生えていくまではゆるやかに上昇していきます。小学校2年生くらいからはいつも学級代表や副代表をやるようなリーダー的タイプでした。
体育教官室のアイドル
15歳、受験のときにずどんと落ちました。何故かというと、3歳からずっと習っていたピアノを諦めなければならなかったからです。
わたしの世代はクラスの8,9割の子がピアノを習っていたんだけど、わたしはその中でも結構厳しくやっていて、本当に音楽を仕事にしたかったんです。
将来の夢は作曲家やピアニストって言ってたんですけど、学年が上がるにつれて現実が見えてきて、最終的にはピアノの先生になって近所の子たちにレッスンの後に飴をあげて、じゃあねと帰してあげることでした。だけど、受験のときに両親の大反対にあうんです。
わたしの父も少し音楽業界のことがわかっていたので、
「それじゃ食べていけないから、とりあえず今は勉強しなさい。きちんと勉強して進学校に行って、そこから進路を考えればいいんだから、今は勉強だ」
と中3のときに言われて、毎日泣いて、毎晩家族会議ですよ。
あれだけ遊ぶのを我慢してあんなに練習していて、練習しないでいたら窓から楽譜を投げられたりすることもあったのに、いきなり「趣味にしなさい」だなんて、それはないじゃないって感じでしたね。
一応勉強して進学校に受かったんですけど、このときも落ちたと思ってたんです。受験当日、すごい生理痛で。
「具合悪いひと手を挙げて」って言われるでしょ?挙げたのね。だけど退場できるだけなのね。
手を挙げても、教室から出ていいってだけで、連れて行かれる先は保健室。
当たり前なんだけど、それで治るわけでも、救われるわけでもないし、問題回答時間がただなくなるだけだった。
家に帰って、泣きながら、母を家から追い出しましたね。テレビでやっている解答速報をひとりでやりたいから、
「絶対落ちたと思うし、お願いだからどこかに出かけてほしい」
って、母にお財布ひとつ持たせてね。だけど母も、わたしが落ちたら私立に行かせなきゃならないと思うから、近くのスーパーでさえ何もお買い物できないで帰ってきたみたいでしたね。結局なんとか受かって、高校はとにかく楽しかったですね。
部活はバドミントンで、色々ありましたけど、最後は部長をやったり、とにかく目立って明るい女の子だったと思います。
学年のみんなと友だちで、先生たちからもすごくかわいがってもらったし、体育教官室ではアイドル的存在だったんじゃないかなと思いますね(笑)。
昔から爪をきれいにするのがすきだったので、少し伸ばして形を整えてたの。
当然「部長が何やってるんだ、教官室来いお前」って引っ張られて、汚い爪切り出されて、「ここで切れ」って言われるの。
「わかったよ先生、でもこの爪切り、切れなさそうだからちゃんと家で切ってくるから」ってごまかして。
で、絶対次の日も切ってこないから、毎日教官室に連れて行かれて。そんなふうに毎日楽しい高校生活でしたね。
その頃はもうピアノは完全に辞めていました。高校時代はとにかく青春そのものでした。
1年生のときに男女10人のグループにいて、本当にたのしかったですね。
もじもじちゃんから、明朗快活な少女へ。青春時代を過ごした中西さんの高校卒業後の進路の話からはまた次回!
お楽しみに。