渡邉真琴さんの「信じ切って、気持ちをかける」の話(2/5) – 自分を試したい

2019.03.29コラム

5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催していたトークイベント「働く女」
昔は結婚して家事をし、子どもを育てることが女性の生きる道だとされていましたが、今では女性の生き方も多様化しています。
そんな女性のキャリアについて実際に諸先輩方にお話を聴きたい!と思い始めた会です。
ゲストはテレフォンショッキング形式で決まります。
2月に開催した、最終回ゲストで株式会社Mako教育研究所 代表取締役の渡邉真琴さんのおはなし全5回の2回目です。

今回は大学進学から就職までをどうぞ!

前回までの分も併せてご覧ください。

第1回 ハイジ時代から暗黒時代へ

アメリカかフランスに行きたかった

その時からだんだん学校側も進学に力を入れ始めて、先生が大学の学校周りをして、推薦枠をとってくれていたんです。
それで、一般受験をしないで推薦でそのまま行けるようにもなりました。
今の札幌国際大学、昔の静修短大がちょうど四年制に切り替わるときだったんです。短大の推薦を受けて入学して、四年制に編入できると言われたんですけど、わたし自身は短大行くのすら嫌になっていたんです。
進学はしたいけど、目的はなく、当時高校を卒業したらアメリカかフランスに行きたかったんです。ずっとむかわにいたから、本当に嫌だったんです。
都会に行きたいを通り越して、海外に行きたいだったんです。
この鬱々と、悶々とした場所から自分を試したい、というか、自分は何者でもないし、何もできるものもないんだけれど、とにかくここから出て、自分を見つけたかったし、チャレンジしたかったですね。
それで、志望校を決めるときに見るものは海外研修の有無です。
そうこうしているうちに進路を決めなきゃいけなくなって、そんなに行きたくないけど、短大に行って、その2年間のうちにバイトを一生懸命すればお金が貯まる。それで海外に行けばいいやと思うようになって、進学するんです。

朝3時まで働いて

当初の予定通り、学生生活はバイトに明け暮れるんですね。家庭教師とか色々やりました。、居酒屋が一番長かったのかな。
楽しくなっちゃって。絶妙なタイミングで行くとお客さんがとっても喜んでくれて、ファンになってくれるじゃないですか、当時は若かったし。そうして、お客さんが通ってくれたり、単純に接客が面白かったです。
あと、店長もすごく面白いひとだったので、いかに効率よく美しく商品を出すか競い合ったりして。朝の3時くらいまで普通に働いていました。
当時は下宿をしてたんですよね。下宿メンバーは北海道にいる子はほとんどいなくて、みんな向こうにいるんですけど、今でも仲良しです。
バイトが終わって「帰るから」って連絡をして、内側からカギを開けてくれて。みんなでこっそり、おばさんに見つかりそうになりながら。
あのとき携帯なかったですよね、どうやって連絡とってたんだろう?電話だったのかな。
ハラハラドキドキな楽しい下宿生活でした。

死に物狂いの海外研修

バイトばっかりしてたから、いざ留学を考えようと思っても、お金はあっても学力がなかったんです。「バイトしすぎたし遊びすぎた、やばい」と思いました。
2年間あっという間だと思ったし、そもそもがわたしの考えは間違ってるなと思いました。
こんな感じで海外に行っても、何もないってことはないけれども、ダメだなって、海外に行くことを諦めました。
だけど、英語科だったので、一ヶ月の海外研修はありました。
それで、一ヶ月アメリカのサンフランシスコに行ったんです。ステイした先は80歳のおばあちゃんがホストでした。
何かあったらどうするんだろう、大丈夫かなと思いつつ、補聴器はつけてるんだけど、気は確かだし、しっかりしてるんです。
ダンスのバレエの会社を経営されている方で、芸術家で、お父様はイタリアの国会議事堂の壁画を描いた画家なんですって、裏は取ってません。(笑)
本当に知的なおばあちゃまで、彼女は五か国語を話せたんです。なので、「なんで真琴は英語すら満足に話せないんだ」って、毎晩すごい難しい本を一緒に読み合いをしました。
他にも、WHOのビデオを見て、そのあとディスカッションしたり、保険制度について日本とアメリカの違いを話し合うとか、超ハイレベルで、本当わたしずっとバイトして勉強したなかったから、死に物狂い、大変でした。
だけど、オペラに連れて行ってくれたり、レストランも多国籍の色んなところに連れて行ってくれました。
ただ、おばあちゃんなので、学校に持たせるスナックにはたまに傷んでるフルーツが入ってたりとか。(笑)
最初はおばあちゃんとの英語の特訓も頑張ってんたんですけど、しんどくて早く家に帰るのが苦痛になっていました。
友だちと買い物して遅くに帰るのを連日続けたら、またすごい怒られました、「ショッピングショッピングショッピング!前にステイしてた日本人の子は全然違った、もっと勉強してた」と比較をされて。
それまでずっと優等生で来ていたので、そんなに比較されることがなかったんです。比較されるとこういう気持ちになるんだなということをそこで初めて知って、結構きついなと。
でも、言われて当然だなというのもあって、「勉強するってこういうことなんだよな」ってその時に感じました。

まずは一番したくない仕事を

このまま留学をするというよりは、わたしは日本でもっとちゃんと学んで、それからでもいいんじゃないかなって、もしかしたら逃げだったかもしれないですけどね。
そんな思いで研修から帰ってきて、進学するつもりだったけれど、この学力ではどうにもならないと思って、就職活動を始めました。
そこで、なんとなく教育がすきだなというのと、ハイジ生活をしていたので、北海道で農業とか酪農体験ができるようなプログラムを作って子どもたちをこっちに呼ぶとか楽しそうだなと思って、そういう企画もできる会社が、わたしが最初に入社した教育総合出版社である中央出版でした。
基本は教材営業の会社だけど、旅行事業部というのがあって、そこでホームステイや国内の研修やイベント企画をしていました。
この会社で一番よかったのが、どんな学歴のひとも全員訪問販売をするところでした。若くてとんがっていて、とにかく自分を試したかったので、なんと素晴らしいと。
しかも、営業は絶対やりたくない仕事だったんですよ。やりたくない仕事を最初にやったら、あとはなんでもできるなって。
あと、とにかく北海道を出たかったんですよね。どこに配属されるかは全然わからなかったんですけど、一応全国に営業所がある会社でした。
最後の決め手は採用担当者がすごくよかったということです。「こんなひとがいる会社なら働きたい」というひとだったんです。
でも、学校の先生からは、「ブラックだから、本当に辞めた方がいいよ。入っても辞める子たちがたくさんだよ」と言われました。
だけど、「辞めなさい」って言われれば言われるほど燃える、みたいな。「ひとはひと」って感じがあって。

<続く>

とにかく外へ出たくて、自分を試したかった真琴さん。

待っていた社会人生活は?次回へ続きます。