中西まゆみさんの「豊かさにつながる手間と仕事」の話(3/5)- サンドイッチが買えなかった

2019.03.12コラム

5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催しているトークイベント「働く女」
昔は結婚して家事をし、子どもを育てることが女性の生きる道だとされていましたが、今では女性の生き方も多様化しています。
そんな女性のキャリアについて実際に諸先輩方にお話を聴きたい!と思い始めた会です。
ゲストはテレフォンショッキング形式で決まります。
11月に開催した、第6回目のゲストでテーブルコーディネーターの中西まゆみさんのおはなし全5回の3回目です。

今回はご結婚後の専業主婦時代、派遣社員時代、そして正社員へ再び!のお話です。

前回までの分も併せてご覧ください。

第1回 もじもじちゃん、アイドルになる

第2回 大失恋ののち、出会えてよかった

 

女の役割を

仕事は大変でしたけど、おかげ様で色んなことができましたし、ある程度お金もあったので、結婚が決まったときにはもうやりたいことは全てやりきったと思っていて。

仕事では鍛えられました本当に。仕事は自動車事故の示談交渉してたんですよ。1,2時間怒鳴られっぱなしとか。延々と無理な要求をされたりとか。

「ばかやろう」だの「クソ死ね」だのって言われながら。やりがいはあったけど過酷な毎日でしたね。

こんな仕事だから、女の子、絶対泣くのね。辞めちゃう子は辞めちゃうし、そんな中わたしは一度も泣いたことがなくて、結構バリバリと男勝りな感じで当時は仕事してたんです。

当時は今みたいに、結婚しても仕事を続ける感じじゃなくて、どちらかというと結婚したら辞めるような時代でした。

仕事は充分やりきったと思っていたし、入社10年目を迎えてお局様みたいにになりたくなかったっていうのもあって、9年目のときに仕事を辞めました。

20歳で会社に入ったとき、30歳くらいの女の人って「主任」の役職がつくくらいになるんだけど、それがいやだったの。

だから、それまで第一線で働いてきたけど、これからは夫を立てて支えて、自分は2歩3歩後ろをついて行きたいな、それが女の役割だよなっていう風に思って、向こうもわたしが会社を辞めて家に入って欲しかった、それは向こうの両親も含めてあったので、専業主婦になるわけです。

 

280円のサンドイッチが買えない

1か月で専業主婦に向いてないと気づいて、29歳でまたどんと落ちるわけですね。当時鬱って言葉はなかったので、半分ノイローゼみたいなね。本当につまんないの。

朝シャワー浴びるでしょ、お化粧するでしょ、ブローするでしょ、口紅つけるでしょ、誰にも会わないのにお昼ごはん食べたら口紅とれちゃうの。何のためにわたしお化粧したんだろうと思うわけね。

今まで人に囲まれて暮らしてたのが、家で一人で過ごすことが多くなって、朝のワイドショーを見て、お昼にはドラマを見てっていう憧れの暮らしも1週間すればもういいわけですよね。それでおかしくなっちゃって。仕事をしてたときとのギャップがね。

やっぱり社会から必要としてもらいたい、認めてもらいたいなって。夫はすぐわかるわけですよ、こいつは家に置いておく奴じゃないって。それで半年くらいで外にでるようになりました。

職業訓練でインテリアコーディネーターの専門学校に3か月通うことができて、元々興味もあったし、その勉強が役に立って今の家が建てられました。

あと、自分で働いてないのに、お金を使うことの罪悪感がすごくあって、よく覚えてるんだけど、ボストンベイクに280円のサンドイッチがあったのね、それが買えなかったの。

自分で働いてもいないのに、この280円のサンドイッチをお昼に食べるのはすごい贅沢なんじゃないかっていう気持ちになって、買えなかったですね。

それから、銀行に派遣社員として入りました。

今まで自分が責任と権限を持って、自分の判断で何でもできていたことが、「派遣さんだからそこまでやらなくていいよ」、「もう5時だから帰っていいよ」って言われるんですよね。

またそれが嫌だったの。わたしにはもっと能力もあるし、やる気もある

子どもがいるわけじゃないから、多少残業してでも最後まで自分で仕事を片づけたいと思うのに、そうやって丁寧に扱ってもらえるわけです。

それが派遣のいい所だと思うけど、それまで結構バリバリ仕事をしていたので、それがすごいいやでした。ただ、履歴書にあまりキズをつけたくなかったんです。

2年半くらいがんばったのかな?それから保険会社に転職するんですね。

自分のノウハウや能力を活かしたほうがいいなと思って。

 

「これ以上大変になることはないので大丈夫」

そこも派遣からのスタートだったけど、経験者だから派遣社員の待遇で社員と同じような働きを期待されるし、わたしも買って出ちゃうからやっちゃうんですね。

そこでアンバランスが出てくる。社員のひとたちと同じように働いても、わたしは派遣の待遇でしかない。だから社員登用試験を受けたんです。

「専業主婦になってほしい」と言ってたはずの夫も、「チャンスがあるなら社員になるほうがいい」って理解してくれて。

保証人になってもらうのに、わたしの実家に判をもらいに行ったときに、夫が家事に協力的なことを知っている母が「正社員として忙しく働き始めたらあなた苦労するのに、いいの?」って夫に聞いたんです。

「多分これ以上大変になることはないので大丈夫です」って言ってくれましたね。

だけど、登用試験を受ける中に優秀なひとがいて、上司から「もしかしたら中西さん今回だめかもしれない。だけど、もし今年だめでも来年もまた推薦してあげるから来年がんばろう」って言われたのね。

そのときに「今年必要のない人間がなんで来年になったら必要になるんですか。今年だめだっていうことはもうこの会社にわたしは必要ないってことなんだから、今年落ちてたらわたし辞めますから」って言ったのね。そしたら受かったの。

そこからやっとまた社員になって、思うように能力発揮してちゃんと報酬もいただいてがんばれるなと思ってがんばってたんですよ。

30半ばくらいのときなので、勢いもあって元気でばりばりと働きました。

 

「全摘しかないね」

36歳のときに少し落ち込むのは、病気になったからです。子宮と卵巣の手術をしました。

年齢的にも、子どもも欲しかったので、全摘はしてないんだけど、折角派遣でわたしに優しい環境で働ける場所があったにもかかわらず、上昇志向でストレスを抱えて、無理しながら仕事を続けていたことで、こういうことって身体にすごく出ちゃうんだなと思って、かなりナーバスになっていました。

最初に病院にかかったときに、36歳のお年頃の女性に向かって、本当にひどいんだけど「治したいんだったら子宮全摘しかないね」っていきなり言われたのね。

そのときに真っ青になって、全摘せずになんとかする方法はないのかしらと思って、セカンドオピニオンで別の病院に行ったら、「それはそれは大変だったね、びっくりしたでしょ、大丈夫だよ、腹腔鏡でちゃんとできるから。いい先生紹介してあげるよ」って言ってもらえて、望みは残したまま手術ができました。

だけど、このときちょうど悠仁さまが生まれたときで、わたしはこんな状況なのに、かたや国民からすごく祝福されているのを見るのがつらかったです。

あと、産科と婦人科とは一応離れてはいるんだけど、同じ病棟なので、赤ちゃんの、生まれた子たちの泣き声がするし、「まだまだ36歳、若いから大丈夫だよ」って先生は言ってくれてるんだけど、自分としては不幸の塊みたいな感じになってるので。

この頃にテーブルコーディネートを習い始めたけど、当時読んでた本は「毎日を丁寧に暮らす」っていうような本ばかりでした。

自分が自分を大切にしてなければ、暮らしも荒れて何事も仕事優先になるっていうことをすごく考え始めるんです。

 

<つづく>