渡邉真琴さんの「信じ切って、気持ちをかける」の話(1/5) – ハイジ時代から暗黒時代へ

2019.03.28コラム

2018年5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催していたトークイベント「働く女」
昔は結婚して家事をし、子どもを育てることが女性の生きる道だとされていましたが、今では女性の生き方も多様化しています。
そんな女性のキャリアについて実際に諸先輩方にお話を聴きたい!と思い始めた会です。
ゲストはテレフォンショッキング形式で決まります。
2月に開催した、最終回のゲストで、株式会社Mako教育研究所 代表取締役の渡邉真琴さんのおはなし全5回の初回です。

柔らかい女性らしい雰囲気を持つ真琴さん、仕事に家庭に様々なことを乗り越えてきました。
まずは現在していること、少女時代から高校時代までをお伺いしました。

プロフィール


渡邉 真琴(まこ)
教育コーチ×教育コンシェルジュ×インテリアデザイナー。
お母さんの塾「未来育て塾」主宰、小中学生個別指導学院Hero‛s札幌円山校 教室長、株式会社Mako教育研究所 代表取締役。
新卒で教育総合出版社入社。愛知県、関東一園を担当後、ローラアシュレイジャパン入社インテリアデザイナーとして従事する。
3年間子育てに専念の後、幼児用英語教材アドバイザーを経て現在に至る。

コーチの技術をお母さんに

―今はどんなことをしてらっしゃいますか?

今は教育コーチ教育コンシェルジュ、時々インテリアデザイナーの仕事もしています。
教育コーチに関しては、最初はお母さん向けの子育てのコーチング講座からスタートたんですけど、講座が終わってからも学び続けたいというリクエストを頂いて、お母さんの塾を始めました。
コーチングだけでは補いきれない部分があったり、それ以外のことも含めた色んなことを話せる・学べる場としています。
「コーチ」というとピンと来ないかもしれませんが、あなた自身の中にある答えを引き出し、あなたの夢・目標に向かって、あなたを信頼し、伴走しますよというのがコーチなんです。
それを子育てに応用したのが子育てコーチングです。

 

―お母さん向けのコーチングということは、お母さんが子どもにしてもらうために?

そうですそうです。

 

―お母さん向けの塾は定期的にやってらっしゃったんですか?

年明けから始めて、月3回プラス個別1回です。
ただ、個別を受けたいという方は自らリクエストくださいという形をとっています。わたしはスパルタなのでそういう形をとっています。
本人に自主的に学ぶという気持ちがないと、何を言っても子どもと一緒で変わらないんです。

 

―子どもと接する上での悩みとか?

色々ですけど、自分の親との関係のご相談をする方もいらっしゃいます。そこが解決されないと自身の子育てにもつながっているんですよね。
あとは、これから先のために子どもに学力をつけたいんだけど、未来を見据えて今何が必要なのかということのご相談もあります。一人一人の子に合わせて話をしないと、全然違うものになってしまうので。
あとはもっと些細な感じ。あのときこんな風に言っちゃったんですけど、真琴さんだったら何て言いますか?とか、そういうことも含めて、オーダーメイド的に行っています。

 

―いらっしゃたるお母さんたちのお子さんの年齢はバラバラなんですか?

未就学児さんもいるし、幼稚園生、小学生もいます。
中学生のお母さんは今いないかな?体験とかではいらっしゃるけれども、塾ではいないです。

まるでハイジ

―お生まれは?

むかわ町です。ししゃもとたんぽぽ群生地が日本一だそうです。高校卒業までいました。

 

―どんな子どもでした?

母の実家が酪農業をやっていたので、よくお手伝いをしてました。本当にハイジみたいな感じです。
藁のベッドをおばあちゃんが作ってくれたり、ハイジの真似をしてみたり。
チーズを作ったことはないけど、牛乳豆腐って知ってます?搾りたての牛乳にレモンとかお酢を入れると分離するんです。
それを固形のものだけ型に押して、しょう油をつけて食べるんですけど、すごい美味しいの!カッテージチーズみたいでした。

 

―普通の牛乳じゃできないの?

普通のじゃできないんです。搾りたてのじゃないと。それが好きでいつも作ってもらっていました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんといることが多かったかな。母は家業の手伝いをしていて、父は農協職員でサラリーマンだったの。
祖父は中々変わっている人だったんですよね。「経験がないからやらないというのは、よくない」というようなことを言っていて、「経験がないなら作ればいい」と。
小さい時にきいたその言葉がずっと胸に残ってるんですよね。
だから、何かチャレンジしようと思ったときに、「どうしようかな」って思うじゃないですか。そのときに、「経験がないから今ドキドキしてるけど、経験すればいいんだな」って結構前向きでした。
中々個性的なおじいちゃんでした。

 

―ご兄弟はいらっしゃるんですか?

妹がいるんですけど、6歳離れているので、お互いほぼ一人っ子な感覚です。

 

―小学生の頃は何がすきでしたか?クラブ活動とかしてましたか?

何やってたんだろう。記憶にないかも。
小学校の頃の記憶はすきな男の子と公文の帰りに、暗い中一緒に帰るのにキュンキュンしてたのは浮かぶんだけどな…。
何がすきだったんでしょうね。とにかく元気ではありました。

 

―中学校はむかわ町の中学校にご進学されて、部活はやってました?

部活はバレー部をやってました。あと生徒会も2年くらいやっていました。
むかわは人口8,000人なんですけど、当時小学校は6校あったんです。
酪農や漁業をやってる方もいるけど、どちらかというと農業の方が中心で、結構遠くの小学校からもスクールバスに乗って来ていました。
当時4クラスあったんです。今は2クラスですけどね。

 

―割とリーダーシップを取るタイプ?

いや、会長ではなく会長以下で。優等生だったと思います。
卒業式の答辞も読んで、「伝説の答辞」と呼ばれていました。みんな号泣したんです。その時は上手に言えたみたいで。

暗黒の時代

むかわ高校は進学するひとが2,3人しかいなくて、ほとんど専門学校か就職なんです。
わたしは進学したかったので、苫小牧の高校を希望しました。進学希望の子は苫小牧の高校にむかわからJRに乗っていくんです。
わたしはそのつもりでいたし、両親もそう思っているものだと思っていたんだけれども、志望校を決める三者面談のときに、なぜか母が手のひら返しをし、「むかわでいいと思ってるんです、先生」って。
先生も「今の成績だと第一志望の学校に受かるかもしれないし、受からないかもしれない。真琴の頑張り次第だけれども、もしダメだったら私立になってしまいますね」と言いました。
だけど、わたしは心の中で「むかわ高校は二次募集で充分入れる」という感覚だったんです。それまで話していたことと全然違うことを突然母が言い出して、あんまりにもびっくりしました。
だけど、母の本心はそうだったんだということと、わたしもそれに対してショックすぎて切り返せなくて、そこから両親との溝がピシーっと入りました。
大人になって思えば、「それでもわたしはチャレンジしたい。苫小牧の学校を受験させてほしい。」と言えばよかったのに、言えなかったんです。
自信がなかったのかなんなのか、もう正直記憶にはないんです。
だけど、当時は行きたい学校に行けなかったということと、信用していたのにいきなりそういう仕打ちをされたという気持ちでいっぱいだったので、本当に暗黒の高校三年間を過ごします。それでも生徒会はやってるんです。
全然高校に行きたくなかったし、つまらなかったし、何のためにこの三年間があるのかと思っていたので、「先生、具合悪い」って言って生徒会室でさぼっているような三年間でした。
それでもそういう学校だから、勉強していなくても優秀な方だったので、町の企画の交換留学というか、ホームステイで一ヶ月アメリカに行かせてもらいました。

<続く>

天真爛漫な幼少期から、不本意な高校時代を過ごした真琴さん。

高校卒業後の進路はいかに?次回へ続きます。