石田香織さんの「好きなように生きる!」はなし(1/5) – 転機になった言葉
5月から毎月最終火曜日にオノベカにて開催している「働く女」。女性の多様なキャリアについて実際にお話を聴く会です。
その第1回目のゲスト石田香織さんのが実際にお話しされたことをを5回に分けて連載いたします。
何でオーガニックなのか
まず最初にわたし自身のことを説明しますね。
このぐらいの季節になると田んぼで田植えをしたり、野菜を収穫したり、色んなことをやっております。
その中でもメインは南1条西5丁目にあるオーガニック居酒屋「粋ラボラトリー」というお店の経営で、始めて8年になりますね。
つい先週も行ってきたのですが、農場に行きつつ、店舗の経営やイベント、農業体験などを通して、オーガニック野菜の普及拡大をしています。よく、「何でオーガニックをやっているんですか」と聞かれるんですけど、元々わたしの活動のベースは「環境問題を改善・解決しよう」という社会運動みたいなところです。
というのも、自分の活動のスタートはゴミ拾いなんです。今から14年前に毎週木曜日の朝7時からゴミを拾う活動をはじめ、5年程続けていました。今では、気が向いたらやっているのと、年に一度、5月3日、語呂合わせでゴミの日ということで、札幌に限らず全世界で「ゴミと一緒に出会いを拾う」というコンセプトでゴミ拾いイベントをやっています。
高校をドロップアウト、アメリカへ
いま32歳ですが、18歳のときからずっと環境のことをやっています。
普通のレールに沿った道のりは歩んでいなくて、中学校にはほとんど行ってなかったんですよ。中学校で勉強することに意味を感じなくて、給食だけ食べに行くというちょっと変わった中学生でした。別に引きこもりというわけではなくて、どっちかというと遊びすぎていたという感じです。中学校を卒業して一度は札幌工業高校の定時制に通いました。
昼間働いて夜に学校に行くというのを2,3年続けました。将来は建築関係の仕事をしたいなと思って工業高校に入ったんですけど、周りのひとより早く社会に出て、社会に身を置く中で、「建築よりも全然違う、もうちょっとやるべきことが自分にはあるはずだ」と思ってドロップアウトしました。
辞めて、アメリカに一人旅に行くわけです。当時はR&B、ヒップホップがすごくすきで、「アメリカのクラブに行って本場の音楽を聴いて楽しもう~」と思っていたのに、アメリカって法律が厳しくて、18歳未満はクラブに入れないんです。「ID見せろ」って言われてパスポートしかないので、見せたら「ダメダメ~」みたいな(笑)。「あれわたし、何しに来たんだっけ~?!」っていう状態でした。
これ、ほんとネタでしかないんですけどね。
あなた達が世界を変えてください
それで、日本に帰ってきて、尊敬する大人に出会いました。「てんつくマン」って言います。てんつくマンって知ってる方いますか?
たまに狸小路やすすきので「あなたの目を見て言葉を書きます」っていうパフォーマンスをしている路上詩人がいるんですけど、それを日本で一番最初にやったひとです。もともと吉本興業で、山崎邦正の相方をしていた芸人さんなんですけど、色々考えることがあって芸人を辞め、ひとの可能性を見出すような仕事をしていました。
わたしが18歳のときにてんつくマンに会って、一緒にカンボジアで海外支援しないかと誘われて、当時は目標も特に無かったので、二つ返事で行きました。カンボジアの中での体験・経験が、ものすごく自分の枠を広げることにもなったし、価値観をガラッと変えたんです。
スラム街と言われる貧困地域で2週間活動をしました。自分たちで持って行った募金を使って、そこで本当に必要なものはなんだろうと現地のひとと話をしながら、仕事や学校を作りました。
そこで、スラム街の村長さんとお話したときに、「お金がなくてもみんな一生懸命生きて、がんばってくださいね!」と伝えたんですよ。
そのときに彼に言われたのが、「僕たちが頑張っても社会は変わりません。字も本も読めず、仕事の依頼が来てもわからないものにサインをしてしまって、娘が売られたという経験をしているひとたちがたくさんいます。教育もお金も十分にあり、生きるということに不安のない世界に生きているあなたたちが頑張ってください、あなたたちが頑張って世界を変えてください」と。
そう言われてすごく泣いたんです。自分は学校も行かずに遊んでいて、18歳でそういうことを言われて、「そっか!」と何かが壊れたんです。それで、帰って来てから「日本を変えよう」という熱量で、やれることをやろうと思って、今に至ります。
家賃一万円生活
わたしが今、何のために会社を経営しているのかというと、「豊かに幸せに生きる人を増やす」ため、そして、「人も地球も持続可能な社会を作る」ためです。この二つを軸に、ボランティア活動を含め14年活動をしています。最初はボランティアで活動してたんですけど、結局ボランティアをするためにもある程度費用は必要ですし、自分が生活していくためにお金が必要です。
18歳の頃から4年くらいはアルバイトをして、そのお金を全部ボランティアにつぎ込んでいました。そのときは月1万円のところに住んだこともありました。そのくらい自分の生活水準を下げて社会貢献活動に没頭していました。
イベントを開催したり、募金活動をしたり、色んな方法でお金を集めたんですけど、あんまり持続可能じゃないなと思ったんです。その活動自体でお金や価値を見出していかないと、自分がずっと家賃1万円のところに住んでいるわけにもいかないと…。
下宿のような場所で、そのときは国際交流というかいい点もありましたけど、プライベートなんてあってないような空間でした。今考えれば、それもそれで楽しかったんですけど、自分たちで稼がないとこれから活動を広げていきたいときになかなか難しいかなと思って、自分たちが社会にとっていいと思えることで、かつ仕事になることは何だろうと22歳くらいのときにずっと考えていました。
そのときに出会わせて頂いたのが、札幌の小さな広告代理店会社の社長さんだったんです。その社長さんと意気投合して、「君の考え方は面白いからうちの事務所においでよ」と声をかけていただいて、それが縁で広告代理店の仕事をさせてもらったんですよね。
続く…